石原かるたで学ぼう! ~石原地区の秘密~

 みなさんは石原小学校区の郷土かるたを見たことがありますか?このかるたには、名所旧跡や歴史上の人物など、石原地区に関することが盛りだくさん!これから、石原かるたを使って、石原の秘密を探っていきましょう!

○どうやって作られたの?

 石原小学校第21代田尻悟校長先生が発案して作成が始まりました。PTAの方や自治会長さん、各御家庭などに協力をしてもらい、どんなかるたにするか検討がくり返されました。そして数多くの応募の中から、条件を満たした46文字分の読み札が揃いました。絵札は当時の4~6年生によって書かれたのですよ。こうして約3年の年月をかけて、石原小学校区の郷土かるたは完成しました。

あ行

「あ」 荒川が 流れてできた 石原の地

荒川は、「荒れ川」が語源と言われるほどの氾濫する川でした。石原付近一帯は広い範囲で荒川の流路となっていて、砂や石が堆積して石の原になっていましたので、石原の地名ができたと言われています。

「い」一番街 むかしなつかし 中山道

 中山道は京都と江戸を結ぶ重要な街道で、熊谷の商店街は中山道(国道)沿いに発展しました。終戦後の戦災復興計画で、熊谷寺前から西の17号国道は、新しいルートになり、旧中山道は一番街などの商店街になりました。

「う」「馬次郎」と 言われる稲荷は 大原稲荷

 慶長年間(1592年)、地元の篤志家とくしか「馬次郎」が京都伏見稲荷より寄進きしんして「大原馬次郎稲荷」と呼ばれるようになりました。現在の社殿は、昭和8年に竹井家14代当主
竹井澹如たけいたんじょ氏が建て替えたものです。

「え」駅名に 「いしわら」の文字 秩父線

  明治32年上部鉄道株式会社設立、同34年10月に熊谷~寄居間が開業されました。石原駅はこの開業の時からありました。大正5年秩父鉄道株式会社に社名変更しました。昭和3年3月三峰口まで延長、秩父鉄道の路線は、羽生~三峰口となりました。昭和8年4月に鎌倉町駅を開業、同年7年に上熊谷駅に改称しました。昭和63年には、熊谷市で開催されていたさいたま博に合わせて、SLパレオエクスプレス号の運転を開始しました。

「お」 大原は 環境豊かな 学園地区

 大原には、熊谷高校(元熊谷中学校)、熊谷農業高校(元熊谷農学校)、大原中学校(熊谷商業学校、桜雲女学校の跡)があり、そばに石原小学校もあって、環境に恵まれた学園地区となっています。

か行

「か」 かいこを育て 研究した 蚕業さんぎょう試験場しけんじょう

 大正2年に設立され養蚕の研究や蚕種(蚕の卵)の製造等を行いました。養蚕・製糸業が衰退したため、平成10年に廃止されました。跡地の利用方法は、市で検討されているところです。
☆ちなみに…

 跡地はみんなが使うこともある、石原小学校横のひろばです!

 北大通り 真ん中流れる 成田用水

 成田用水は文亀年間(1501~1503)に成田氏が忍城を造るとき、城の守りと潅漑のために荒川の水を引いて作りました。熊谷宿付近では当時の中山道沿いの台地と田畑の境に沿って掘られましたが、天正18年(1590)に徳川家康が江戸城に入城して間もなく、中山道は成田用水から離れた熊谷宿の中央へ付け替え工事を行いました。終戦後の熊谷市の戦災復興事業で、北大通新設の時に、一部が北大通りの真ん中を流れるように流路が変更されました。

く」 熊商の 学舎のあとの 大原中

 熊谷商業学校は大正9年に設立され、昭和3年に現在の大原中学校のところに移転してきました。終戦前夜の空襲で西小学校の校舎がほとんど焼失したため、西小は、石原小他に分散して授業をしました。昭和22年に西小が市立高等女学校(旧桜雲女学校)の敷地に新校舎を新築して移転したため、市立女学校は大原の熊商の後に入り、熊商は広瀬の工場跡地に移転しました。昭和22年新制中学校設立の際に、大原中学は大原の市立女学校と同居の形で開校しました。昭和25年に市立女学校は県立熊谷女子高等学校に合併したため、大原中学は専用校舎となりました。

「け」 境内に 古墳が二つ 東漸寺

東漸寺付近は石原・坪井古墳群と言って、四十八基もの塚(古墳)があったと言われており、現在でも東漸寺の境内には二基の古墳があります。東漸寺は天正三年(一五七五)建立の古いお寺ですが、古墳はさらに千年くらい前のものです。

「こ」 甲子園 熊高野球部 準優勝

明治二28年埼玉県に二つの県立中学校が開校、浦和の第一中学と熊谷第二中学です。後に熊谷中学になり、昭和23年に県立熊谷高等学校と改称しました。昭和二十四年に熊高野球部は甲子園の高校野球大会に埼玉県勢として初出場(それまでは甲子園不出場は埼玉と宮崎の2県だった)、2年後の昭和26年には決勝まで進みましたが、惜しくも古豪平安高校に敗れました。

さ行

「さ」 桜町 昔は桜の花いっぱい

 八木橋デパートから北へ向かう通称妻沼街道には、桜の樹が植えられていて、桜町通りと呼ばれていました。現在桜の樹はなくなりましたが、桜町の名前は、北大通りの北の街区の町名として残っています。

「す」 すし米と 江戸への出荷 石原米

 石原は、良い水が豊富にあり、土質も米作りに適しているため、昔から良質の米ができました。特に、「石原米」を使うと、おいしい「すし」ができるということで、江戸のすし屋向けとして出荷されました。

「せ」 瀬鳴りやさしい 荒川のほとり 荒川中学

 荒川中学は昭和二十二年に設立され、荒川の近くなので荒川中学と命名されました。最初は赤城町の元兵舎の後を校舎としましたが、昭和二十三年に現在の位置に校舎を新築して移転しました。

「そ」 その昔 桜の名所 北条堤

 天正2年(1574)領主小田原北条氏が、松岩寺裏から石上寺の西まで堤防を造り、北条堤と呼ばれました。明治になって桜が植えられ、桜の名所となりましたが、戦災復興計画で堤は取り壊され、今は市街地になっています。

た行

「ち」ちちぶ道 三本並んだ 道しるべ

 ちちぶ道は、石原の地で中山道から分岐しています。分岐点近くのかめの道公園に、三本の古い道しるべが建っています。左がちちぶ道の道しるべ、真ん中は秩父観音巡礼案内、右は宝登山道の道しるべです。

「て」 寺子屋のあった 真宗寺

真宗寺は、八四〇年前に建立され、幕末には寺子屋もありました。明治六年に東漸寺に石原西学校が設立され、明治十四年には真宗寺境内に移転し、明治二十年に尋常小学校石原学校ができるまでここにありました。

「と」 時を告ぐ 松岩寺 平和の鐘

 松岩寺は慶長元年(一五九六)に建立され、幕末には寺子屋がありました。明治七年から明治二十年まで、石原小学校の前身の石原東小学校がここにありました。昭和三十二年に作られた平和の鐘が毎日朝夕時を知らせております。
 東漸寺、真宗寺、松岩寺には、①幕末には、塾・寺子屋があったこと ②石原小学校の創立に関係したことという二つの共通点があります。今年150周年を迎える石原小学校ですが、この3つのお寺がなくては今の石原小学校はなかったのかもしれませんね。

な行

「な」 直実の 愛馬がねむる 円光塚

 熊谷直実公が、一の谷の合戦で乗っていた愛馬については、いくつかの伝説があります。一つは直実公の家来の権太が東北地方一の戸で探してきた名馬が権太栗毛だという説で、もう一つは高崎郊外の権田村で手に入れた権太栗毛だという説です。権太栗毛が亡くなり埋葬された場所についても、三本村で亡くなり駒形神社に埋葬された説、故郷の権田村へ帰り亡くなったとの説もあります。もう一つが一の谷で怪我をした権太栗毛が熊谷の円光で亡くなり、その供養のために造ったのが円光塚だという説です。

「ぬ」 ぬかりなく 築こう伝統 石原校

 石原小学校は、明治六年の石原西学校、同七年の石原東学校以来の歴史と伝統がある学校です。私たちはこれを受け継いで、ますます立派な学校になるよう、みんなで力を合わせて頑張りましょう。

「ね」 熱心に 教育指導の 教師たち(石原小)

 石原小学校の校訓は「強く 正しく 睦ましく」です。先生方は日々の熱意溢れる指導を通して、これからの社会をたくましく生きていく子供たちを育てています。

「の」 農業・酪農・バイオを育てる熊農高

明治35年に埼玉県立甲種農業学校が設立され、翌明治36年に熊谷農学校に、昭和23年に熊谷農業高等学校に改称されました。高校になった時から男女共学になり、四科・七コースを有する、農業関係の専門高校です。

 石原小学校ができるまでに、たくさんの歴史がありましたね。また、石原小学校の周りにはたくさんの学校がありますね。中学校、高校のお兄さんお姉さんとの交流もたくさん行われています。交流のある時には、かっこいいところをたくさん勉強できるといいですね。

は行

「は」廃線の 妻沼線あと かめの道

 東武熊谷線(通称妻沼線)は、太平洋戦争中に太田の中島飛行機株式会社の従業員と資材運搬のために、鉄道建設の計画をしました。そして、熊谷~妻沼間が昭和18年12月に完成開業しました。続いて、利根川鉄橋の工事に取り掛かりましたが、20年8月、終戦のため工事は中断されました。
 開業当初は、旧式の長い煙突のSLで、力が弱く、高崎線を越すための土手の傾斜が登り切れないほどでした。そのため、いったんバックし、助走をつけてから登りなおしていたことから、かめ号の愛称で呼ばれることとなりました。
 昭和29年にディーゼルカーに切り替え、スピードアップとサービス向上に努めましたが、乗客の減少で、昭和58年5月末をもって東武熊谷線は40年の歴史に終止符を打ちました。
 現在、レール敷地は、熊谷市、妻沼市に無償貸与され、かめの道公園や市道として利用されています。

「ふ」 笛たいこ たたく祭りの 十七号

 熊谷の八坂祭典は、うちわ祭りと言われ、7月20・21・22日の3日間行われます。祭典期間中は、十七号国道は歩行者天国となり、全町で十二台の山車だし・屋台が笛たいこの祭ばやしで、市内を巡業じゅんぎょうします。

「ほ」 星川の 源流近く 石上寺

 石上寺は、江戸時代初期に栄光上人(竹井家祖先)が開山したと伝えられています。熊谷宿古絵図には石上寺のすぐ北に玉の池が描かれています。この池は荒川の伏流水が湧き出た泉が水源で、ここから流れ出たのが星川です。この池の周辺は、富豪武井家の土地で、幕末の慶応年間竹井澹如(たけいたんじょ)翁が別荘池亭を造りました。現在は市指定文化財星渓園となっています。終戦前夜の空襲の際には、鎌倉町の星川に大勢の方が避難しましたが、川の水量が少なかったため、熱風と熱水のため何十人もの方々が亡くなりました。
 現在は北大通りの中央交番の所から、星渓園まで掘削した地下管路により、成田用水から取り入れた水を星川に流しています。

ま行

「ま」繭まゆを紡ぐ 歴史を残すシルク館

 明治40年片倉組石原製紙所が操業を開始しました。大勢の女性従業員がいましたが、輸出が激減してしまい、平成6年に操業を停止しました。現在、跡地はシルク記念館と熊谷サティになっています。
☆なぜ激減してしまったのかというと…
 昭和40年の着物ブームを最後に着物離れが進み、国内需要も低くなってしまったため。

「み」 みんなの安全 守ってくれる 警察署

 終戦前には現在のコミュニティ広場の所の中山道に面してありました。戦災で焼失した後は市役所通りに面して庁舎が建てられました。しかし、この位置周辺は、市のテクノグリーン計画のために立ち退くこととなり、昭和44年に石原の現在地に移転しました。私たちが安全・安心の生活を送れるように、署員の方々が日夜活動されています。

「も」 最も重い 本石の屋台

 八坂祭典(うちわ祭り)は現在旧熊谷町と旧石原村の内の下石地区の12町で開催していますが、昭和8年熊谷市制施行の前までは、熊谷地区と石原地区では別々にお祭りを行っていました。その頃は石原地区には上町、仲町、下町の3台の屋台がありました。昭和8年市制施行で、熊谷石原地区合同で祭典を行うようになったとき、下町は石原1丁目に、仲町は同2丁目に、上町は同3丁目に改称されました。
 昭和20年の戦災時に2丁目の屋台も焼失してしまいました。それもあり、23年の八坂祭典復活時に1丁目と2丁目が合同して、1丁目の屋台を本石町と呼ぶこととしました。そのため、現在は本石区の屋台と呼んでいます。なお、旧石原3丁目の屋台は、石原区と呼ばれています。
 本石の屋台は昭和12年石原1丁目時代に新調されたもので、全町12台の山車・屋台の中で最重量を誇っています。

や行

「や」 八坂やさか様 石原・本石の まつり神

 八坂神社の創建された年月については、資料がないので不明ですが、高城神社所蔵の宝暦2年(1752)に描かれた熊谷宿古絵図には、天王社として載っており、同図ではこの付近の中山道筋が天王丁1丁目と記されていることから、絵図のかなり前から天王社があったことと思われます。
 明治維新後の神仏しんぶつ判然令はんぜんれいにより、京都の総本山が八坂神社と改称されたので、石原の天王社も八坂神社と改称されました。
 明治42年八坂神社は他の9社と共に村社赤城久伊豆神社に合祀され、八坂神社跡には、お神輿おみこしの祠だけが残されました。終戦前夜の空襲でこの祠も焼失し、しばらく空き地になっていましたが、石原地区の八坂祭典の中心として、八坂神社を再建したいとの気運が盛り上がりました。そして地元全員の協賛寄付金で、昭和40年(1965)7月に再建されました。

「ゆ」友情も 夢も育つよ 児童館

 石原婦人児童館は、中に石原公民館もあり、地域の人たちの活動拠点となっています。

「よ」 陽光に 輝く甍いらか 報恩寺

 報恩寺は、熊谷直実公の息女そくじょの玉たま津留つる姫が、父母の恩に報むくいるために、建暦けんりゃく2年(1212)に本町(現熊谷郵便局)に開基されました。昭和20年8月の戦災で全焼、昭和36年に現在地に移転し、平成13年に現本堂に改築されました。

ら行

「ら」雷雲に 予報気になる 気象台

 明治になって生糸の輸出が盛んになり、関東地方をはじめ、全国的に養蚕農家が増え、熊谷周辺でも桑の栽培が増加しました。この時農家が困ったのは、霜による桑の被害でした。埼玉県では霜による被害を防ぐため、降霜の予報を流すべく養蚕の中心地の熊谷に、明治29年に熊谷測候所を設立しました。

 現在は気象観測、天気予報、指定河川洪水予報、地震の震度測定など、毎日の生活に欠かせない情報の発信基地になっています。
 みんなもよく知っている施設がたくさんありましたね!知っていたことはありましたか?反対に知らなかったことはありましたか?お家の人にクイズを出してみてもいいですね。

「り」立派だな 交番勤務の 警察官

 桜町にある中央交番の警察官は、管内パトロールや、交番を訪ねてきた人の相談にのるなど、地域の人たちの安全・安心のために、日夜活躍されています。
 ☆交番の建物は、うちわ祭りの山車の形をしています。

 「れ」 蓮生坊れんせいぼう しのぶ館の 熊谷寺ゆうこくじ

 源平合戦で活躍した熊谷直実は、武士生活に無常を感じて出家し、蓮生法師と名乗って建久6年(1195)熊谷に念仏道場を建てました。その後およそ380年後の天正年間に、幡随意上人ばんずいいしょうが蓮生庵の跡に熊谷寺を建立しました。安政元年(1850)に火災により大伽藍だいがらんが焼失、以後永年壊れたまま存続されていましたが、明治34年再建の許可を得、大正4年に現在の本堂が建てられました。
 明治6年熊谷県が発足し同9年までの3年間、県庁舎は熊谷寺に置かれました。

わ行・ん

「を」旅人を ひと息させる 一里塚

 江戸幕府は慶長9年(1604)道中の目印として、中山道の一里(4㎞)ごとに塚を設け、榎の樹を植えさせました。石原では新島の旧中山道に一里塚があります。ここの樹は樹齢300年以上ですが、なぜか榎ではなくてけやきです。
 石原地区周辺は交通の便が良く、とても便利ですね。今は路線や道として使われていない場所も多いですが、跡地を訪ねてみると、昔からのなごりが残っていたり、看板が建てられたりしていますよ。ぜひ、確かめに行ってみてくださいね!

「ん」 赤城久ひさ伊豆いず神社 石原地区の 鎮守神

 赤城久伊豆神社は、地元では石原の鎮守様と呼ばれています。赤城神社は、群馬県宮城村の赤城神社を歓請したもので鏡内北側の鳥居は赤城山に向けて建てられており、また神楽殿も赤城山を向いています。
神社やお寺がとても多くあることがよくわかりましたね。昔から同じものではなく、各時代の背景や出来事に合わせて変化しているところがほとんどなのです。